天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

フォークロアと短歌

 柳田國男の『遠野物語』『妖怪物語』『海上の道』を購入した。たまたまNHKのTVアーカイブスで柳田國男に関する番組を見たのがきっかけ。有名な本なのだが、今まで一度も読んだことがなかった。『遠野物語』から始める。
 柳田國男はわが国民俗学フォークロア)の創始者である。その弟子に歌人折口信夫がいる。ただ、民俗学へのアプローチは、両者で大分相違があったらしい。柳田が事実・現象の蓄積から仮説を立てる帰納法をとるに対して、折口はマレビトとかヨリシロといった概念を先ず立てて、そこから事実・現象を説明するという演繹法をとった。
 今日の興味は、折口の短歌作品に民俗学研究がどのように影響したか、ということ。例えば、

  葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
  蜑の子や あかきそびらの盛り肉の、もり膨れつゝ、舟漕ぎにけり
  歳深き山の かそけさ。人をりて、まれにもの言ふ 聲きこえつゝ


といった歌は、調査旅行で見聞した情景を詠んでいるように思える。これら作品の背景を詳しく調べれば、影響のあり方がわかってくるかも。「フォークロアと短歌」などと大げさなテーマを掲げると本質を見失うかも。短歌ってそんな肩肘はってつくるものではないのだ。