天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

信濃と信濃路

 合成語の効果ということを考えている。例えば、「道、路」についていえば、都と都大路、馬車と馬車道 いくらもある。その効果とは、ロマン(物語)性が纏い付くということではないか。特に「道、路」の場合はそうである。『日本歌語事典』から信濃信濃路の例歌を引いてみる。


  信濃なる筑摩の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ
                  万葉集・東歌
  鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
                  窪田空穂
  みすず刈る信濃の吾が家いや古りてかの大時計今もうごくか
                  今井邦子


対して、


  信濃道は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましなむ履着
  (くつは)けわが背        万葉集・東歌
                  
  信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる漬菜(つけな)の色は
                  島木赤彦
  信濃路はあかつきのみち車前草(おほばこ)も黄色になりて霜がれ
  にけり             斉藤茂吉

                  

 どうであろう。もともと「信濃」という言葉が美しくロマンチックなので、「信濃路」との違いを説明するのは難しい。先ずは、歌に入ったときの語感で味わうしかない。