不忍池
吉原遊郭跡を訪ねてから上野に引き返し不忍池を回った。枯蓮で池が埋め尽くされているが、その間を種々の鴨たちが泳ぎまわっている。野生の鴨たちだが、人間が与える餌に慣れてしまって、恐れ気もなく、足元に寄ってくる。公園の木々の紅葉にはまだ間がありそうだが、その下で中国雑技団らしき恰好をして大道芸をやっていた。
ぎんなんを拾へば銀杏かがやけり
頭頂にぎんなんを受けベンチかな
枯葉ちる大道芸に拍手湧き
午後からの歌会に出したわが詠草は次のもの。
夕暮を女の声が走りくる“ 日本プロレス藤沢決戦 ”
批評の焦点は下句に当たった。日本プロレスは現在はなく、力道山の時代のもの、また “”の記号は英語に使うものであり、短歌に使うのはダメ、という2点。反論はしなかったが、わが思いは次の通り。
短歌作品は、虚構なのか事実なのか、本来問題にしない。古典和歌の時代からそうである。また、括弧に限らず記号をどう使うか、近年の記号短歌はすざましい試みをしている。要は、一首から得られる情感・意味だけから鑑賞すべきであろう。ある時は、事実を詠むのはダメといい、ある時は虚構ではないか、と非難する。こういう態度をとっていては、短歌は文芸の領域に入れてもらえない。文芸は、何でもあり、を許容して多様な試みの中から、新しい道を拓いてきた。中原中也の項で紹介したダダイズムひとつをとってもわかるはず。もちろん、大半は虚しい試みに終るのだが。ただ、わが今回の詠草は、そんな大げさなものではない。議論するほど革新的な作りになっていないのがかえって悔しい。