天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

五浦海岸(2)

天心の墓

 27歳で東京美術学校(現東京芸術大学)の校長となった岡倉天心は、1898年に日本美術院を設立、1906年五浦の地に移した。横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山などが日本画の創作活動をした。彼らは五浦にそれぞれの邸宅を構えた。天心の旧居宅と六角堂を含む庭園は、現在、茨城大学五浦美術文化研究所として管理されている。
 五浦観光ホテル本館は、下村観山や木村武山の邸宅跡であり、別館の大観荘は、文字通り横山大観の宅地であった。


  茨城の北の海辺に住まひける哲人ひとり岡倉天心
  天心を慕ひて来たり居をかまふ日本画壇の若き俊英
  天心が大観、武山、観山が邸かまへて絵を描きし浦
  天心のもとに集ひて日本画の未来語りき五浦の岬
  釣竿と魚籠もて立てる天心の木の彫像は田中(でんちゅう)
  の作


  天心の住まひの庭の崖中に六角堂はあかあかとあり
  海荒れて怒涛の寄するさまを見き崖なかほどの六角堂に
  水戸までを常磐線に乗りたれば背中にぬくし朝の光は
  あからひく日立の海に風湧きてカモメの群は空にただよふ


写真の墓について。天心の辞世「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影」という遺志に沿って、天心没年の大正二年、東京都染井霊園の墓から、近代日本美術黎明の地であるここ五浦に分骨、埋葬されたもの。路傍にある。