主語の変動(1)
斉藤茂吉の歌の魅力はどこにあるのだろう。要因のひとつに、一首における主語の変動、すり替えをあげることができる。茂吉のレトリックについては、岡井隆、小池光、永田和宏 著『斎藤茂吉―その迷宮に遊ぶ』(砂子屋書房)で分析・議論されている。特に6章の小池光の〈資料〉が役立つ。そこでも「主語変更」をあげているが、2例(『暁紅』から)のみなので物足りない。ここでは、茂吉がいかにこのレトリックを多用したか、例を歌集『白き山』にとってみる。この歌集は、昭和21、22年、茂吉が66、67歳の時に詠んだ歌からなっている。この後に最後の歌集『つきかげ』がくる。
短歌一首において、主語が明示的に書かれていない場合には、作者自身が主体であることは、暗黙の了解事項である。
たたかひにやぶれしのちにながらへてこの係恋は何に本づく
★「ながらへた」のは、短歌暗黙の了解事項から、作者・茂吉
である。そして三句の終りが順接の助詞「て」となっている
ので、当然読者は、下句も作者が主体の動作がくるものと
予想するが、突然、主語が抽象名詞の「係恋」に変る。
係恋とは、心にかけて恋い慕うこと、と辞書にある。
こうした主語の転変がショックを与え、魅力の源泉になる。
真紅なるしやうじやう蜻蛉いづるまで夏は深みぬ病みゐたりしに
★この歌では主語が「蜻蛉」、「夏」、そして隠れているが
「われ」へと変っていく。意味の続きの上からは、「真紅なる
しやうじやう蜻蛉いづるまで夏は深みぬ」までで終わりと思う
のだが、結句にわれの状況が付け足される。この付け足しが
読者には興味深いのだ。
やうやくにくもりはひくく山中に小鳥さへづりわれは眠りぬ
★一首の中に三つの主語「くもり」「小鳥」「われ」がある。
なんともせっかちな作りである。これも読者に驚きを喚起する。