天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

主語の変動(2)

歌集『白き山』

  歌集『白き山』の歌の続きである。


  かくのごとく楽しきこゑをするものか松山
   のうへに鳶啼く聞けば

  ★楽しきこゑをするのは鳶だから、「鳶はかくの
   ごとく楽しきこゑをするものか松山のうへに」
   というところは分かる。ところが、結句で突然に
   主語が私になり、「私が鳶の啼くのを聞けば」と
   変化するので、読者はかすかなとまどいを覚える。


  おもひきり降りたる雪が一年の最短の日に晴間みせたり
  ★晴間をみせたのは、何か? 文脈の上からは、雪になる。
   雪が晴間を見せたというのは変。つまり雪の降る空が晴間を
   見せたのだ。こうした短縮・省略した詠み方が、ちょっとした
   謎を含み魅力になる。


  南海に献身せりとあきらかにいふこともなく時はゆくなり
  ★献身したのは誰か?あきらかにいふのは誰か?結句での主語が
   「時」であることだけは明らかだが。短歌の暗黙の了解事項から
   すれば、作者・斉藤茂吉が南海において献身的に働いたが、
   そのことを世の中に言いだすこともなく、と鑑賞することに
   なるが、この歌はそうでない。茂吉の生涯を知っていれば分かる。
   読者に疑問と関心を抱かせる作りになっている。


 このような例は、茂吉の歌集のあれこれに見つけることができる。今持ち歩いて読んでいる歌集『霜』から一例をとっておこう。


  おもほえず川原を越えてあらはれき雪はだらなる蔵王の山は
  ★語順を変えれば、「雪はだらなる蔵王の山は、おもほえず川原を
   越えてあらはれき」ということは明らかである。よって川原を
   越えた主語は蔵王の山のはず。ところがこの歌のように語順を
   変えると、主語があいまいになり、はじめは川原を越えたのが
   作者・茂吉と思ってしまう。結句まで読んで擬人法なのだと
   気づく。