家康のしかみ像
徳川家康は三十一歳の元亀三年(一五七二)十二月、三方ヶ原で戦った武田信玄との合戦で負けを経験した。後に、この敗戦を肝に銘じるために自分の姿を一幅の絵に描かせ、慢心の自戒として生涯座右に置いたと伝えられる。通称「しかみ像」という。この姿の石像が彫られて岡崎公園に置かれている。
衆知のように岡崎城、別名、龍城は、徳川家康の誕生の場所である。菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵に造られた。明治初期の廃城令で打ち壊されたが、昭和三十四年に天守閣が復元された。丘陵の窪地に造られた能楽堂は一見の価値あり。ギリシャの円形劇場ではないが、客席が周囲に階段状に高まり、舞台を見下す形になっている。
噴水や木の間に見ゆる濠の中
家康のえな塚に聞く蝉しぐれ
蝉しぐれ樹下にま白きしかみ像
弟の初宮参り幣もてる巫女近づけば姉あとずさる
祖母(おほはは)の抱だく幼児に鈴ふりて幸い祈る年増の巫女は
くれなゐの袴が来たり繊き手がお神酒をそそぐ白きかはらけ
家康のおそれをののくしかみ像頭上の樹より降る蝉時雨
大手門入れば広場の時計塔能の翁が十時を告ぐる
空調の効かざる部屋に扇風機ぶんぶん回りうな重を待つ
一色の鰻六尾を裂きしといふわれら四人のためのうな重