天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

二十六聖人の足跡

時津港にて

 一泊二日で長崎県・時津に出張した。(今日のブログのアップロードが遅れた理由です。)時間があれば大村のキリシタン処刑地を訪れたかったが、無理だった。その替りといっては変だが、時津港には「日本二十六聖人上陸の地」という碑が立っているのを見つけたので紹介しよう。次のような説明文が金属板に書かれている。


   天正十五年(1587)六月、豊臣秀吉
  筑前の筥崎で、九州各大名の封域を決めたが、その折に
  長崎の地がイエズス会に寄進されているのを聞き激怒しおて、
  はじめてヤソ教(キリスト教)の不況を禁止した。
   その後、慶長元年(1596)九月、イスパニア船サン=
  フェリペ号が土佐に漂着し、キリスト教の布教はその地を
  植民地化する前触れであると伝えた。それを聞いた秀吉は、
  キリシタン禁令をさらに厳しくし、同年十一月に京都、大坂
  にいた宣教師・信者二十四人を捕え、耳をそぎ大坂、堺の
  町中を引き回した。処刑は、長崎で行うことになった。
  信者が多いとされていたからであろう。
   翌一五九七年一月九日、堺を出発させ、岡山で行を共に
  したいという信者二人が加わった。
   二十六人の一行は、首・両手をしばられ、山陽道から
  唐津をへて二月四日彼杵に着いた。
   小舟で大村湾を渡り、時津に着いたのは夜中の十一時頃
  であった。雪の夜の寒さ、それに飢え疲れにたえながら、
  舟の中で夜をすごし、翌二月五日早朝長崎に向い、午後五時
  刑場の西坂に着き十字架にかけられた。
   その様子は今、西坂の壁面に刻まれている。
   殉教者の内訳は、フランシスコ会宣教師六人、イエズス会
  パウロ三木ら三人、信者十七人で、一八六二年聖人の列に
  加えられた。
                    時津町教育委員会

         
二十六聖人の顛末は、ルイス・フロイスの『26聖人の殉教記録』に詳しい。この記録がローマの法王庁に届けられたことで、聖人に認定されたのである。


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