天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

渡良瀬遊水地

渡良瀬遊水地下流にて

 浅草から東武日光線で新古河まで行き、そこから渡良瀬遊水地下流を見て歩いた。
 この遊水地が造られた目的は、よく知られているように、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することであった。渡良瀬川、思川、巴波川の三つの川が合流する渡良瀬川下流に作られた。表向きの名目は洪水防止目的であったが、1903年の政府の第二次鉱毒調査委員会が渡良瀬川下流部に遊水池を設置する案を提示したことを受けて造成されたことから、鉱毒対策であることは明らかだった。鉱物採掘に起因する山野の環境破壊の典型。
 この事情は、大正十五年五月に三国橋の茨城県側に立てられた渡良瀬川治水紀功碑に詳しく記載されている。ちなみにこの篆額は、当時の内閣総理大臣若槻礼次郎(かっこいい名前だなあ!)による。
足尾銅山は、1877年から1973年の閉山にいたるまで経営された。鉱毒は、渡良瀬川の鮎の大量死、足尾の木々の枯死、流域の田圃の稲の立ち枯れ などの現象として現れた。現在では、上流から流れ出る鉱毒の量は減ったが、遊水地の土壌には蓄積された鉱毒物質が残っている。


      魚釣るや渡良瀬川の夏帽子
      よしきりの声をちこちに三国橋
      遠方に雉啼く渡良瀬遊水地


  よしきりの声しきりなる渡良瀬のよしはら行けば草いきれ立つ
  啼き声はしきりにすれど見当たらぬ渡良瀬遊水地のよしきりは
  埼玉県茨城県の境といふ渡良瀬川の中ほどに立つ
  街にては気づかざりける草いきれ渡良瀬川のよしはらに嗅ぐ
  鉱毒をしづめむとして造られし雉子啼くなる遊水地の原
  ひと筋の葦の枯れ枝につかまりてしきりに啼ける
  よしきりあはれ


  渡良瀬の水勢はやき濁り川開け放ちたる水門が見ゆ
  大いなる治水紀功碑篆刻の漢字ばかりが敷き詰めてあり