不思議な感じ
短歌に限らず、詩には「不思議な感じ」「シュール感」を読者に感じさせる措辞が工夫されている。 「短歌人」五月号に掲載の小池光の歌を例にとってみよう。
満開の桜の川に出てをれる二羽のあひるは
われらにあらず
書いてゐるときいちばん心落ち着くと斉藤茂吉
いへりわが子に
一首目では、読者は結句の「われらに」にひっかかるはず。何で当たり前のことを言うのか? 作者は当然人間だから、「あひる」であるわけがないのに。この前提を覆すことで、読者に考えさせる。考え始めると暗黙の前提の根拠が危ういことに気付き、納得させられるはめになる。
二首目では「わが」がポイントである。「わが」とは茂吉のことではなく、作者のことのように感じられるのだ。つまり、小池光の子に「・・・・・心落ち着く」と言ったかのごとく感じられる。短歌では作者が主体になっているという暗黙の前提をここでも覆している。この歌の主人公は、斉藤茂吉なので、「わが」と言えば茂吉は自分の子供に言ったのが真実なのだ。
別の例をあげると、永井陽子の有名な次の歌。
あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ
ここでは「ガリレオの望遠鏡」における助詞「の」の効果である。桜の時期に、ガリレオが日本にきて望遠鏡をもっているかのような錯覚を覚えてしまう。ガリレオ式の望遠鏡に桜のはなびらが散りかかっているのが実景である。この場合の助詞「の」は、なにかの語を省略させてしまう働きを持っている。
ちなみに、昨日のブログ「あやめ」の項であげたわが歌
鼻に水吸ってわが身に噴きかけて象のウメ子の朝がはじまる
は、小池光の例に倣ったもの。土曜日の東京歌会に詠草として出したのだが、好評であったものの、「わが」の不思議な効果に言及してくれる人はいなかった。残念!