天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

藤の花(続)

横須賀しょうぶ園にて

 正岡子規の次の藤の花ぶさの歌は、評価がなかなか難しい。


  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり


例えば、『諸説近代秀歌鑑賞』で、斎藤茂吉釈迢空、松田常憲、五味保義、谷馨、木俣修、本林勝夫、蒲池文雄、安田章生、柴生田稔、宮地伸一などが、鑑賞している。大方は、剛直端厳な写生であることを評価し、子規の病床生活の背景を考慮した鑑賞になっている。しかし、塚本邦雄は、どこであったか忘れたが、取るに足らない歌と評価しなかった。小池光は、「不在の在」という観点から取りあげている。以下に『街角の事物たち』から引用する。
 「このあまりに有名な一首のポイントは、藤房の先端と、疊との間に
  ひらける空間にあると思える。つまり、「ない」歌だ。本来なにかで
  満ちていなければならない空間が、不在のまま緊張して、たわんでいる。
  その印象は「ない」写真の流れと奇妙に重なる。
  短歌はずうっと「在る」短歌を目指してきたように思うが、「ない」
  短歌というものもあってよい。」


[注]「ない」写真の流れ: 人が全く写っていないのに、人の気配を感じさせる写真。
   例えば、写真家・中野正貴は「人のいない風景」というテーマで、
   銀座や渋谷の繁華街の無人の時を撮影して、見る者に逆に人間の
   存在を強く感じさせている。