天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

大友皇子の陵墓(伝)

日向薬師から大山登山口

 晩秋の日向薬師を訪ねた。そこから少し奥に入って浄発願寺に寄り、日向川にかかる御所の入橋を渡って大友皇子の陵墓まで歩いた。この陵墓は、もちろん伝説のものである。それにしてもどうしてこんな関東の山奥に天智天皇の第一子の墓があるのか? 
 大友皇子は、大化4年(648)に生まれた。671年天智天皇崩御すると、壬申の乱がおこり、天智の弟で皇太子の大海人皇子(のちの天武天皇)と皇位継承を争い敗れた。日本書記には「山前(やまさき)に隠れて自ら縊(くび)る」とある。弱冠25歳の非運の最後であった。ところがどこに葬られたか明らかでない。そのため、源義経と同様な伝説ができた。すなわち、皇子は近江から逃れて関東の伊勢原日向の山中に隠れ住み、詩歌風月を友として一生を送り、没後この古廟塚に奉葬されたという。ちなみに「御所の入橋」は、小田原、箱根、伊豆などにもある。
 現実には、大友皇子は明治になって弘文天皇として認知され、明治十年に大津市園城寺境内の亀岡古墳が御陵に認定されて「長等山前陵」と命名された。


     大山のもみぢ迫り来バスの窓
     どんぐりの落ちてころがる石畳
     谿水のせせらぎに散るもみぢかな
     大山の野猿がとるか木守柿
     柿を食ふ日向薬師野猿かな
     猪鍋の御所の入橋日向川
     芋掘りの半ば済みたる畑かな
     菊かをる浄発願寺奥ノ院
     藁屋根の白髯神社落葉舞ふ


  頭上より杉の枯れ枝落ちくると注意書あり日向薬師
  常緑の樅の木下に散りつつも漆もみぢは朝の日に照る
  黄葉のちる谷水のせせらぎに歩みをとめし我ならなくに
  大友皇子の陵墓と伝へたりさざんかの散るふるき石塔
  罪人のかけ込み寺と伝へたり放火の跡の浄発願寺
  罪人の使役になりし山の辺の長き石階植林の道
  霜月の空を流るる白雲の白髯神社藁葺の屋根
  茶の花のちりこぼれたる石垣に冬の朝陽のさすはさみしき