天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

西行終焉の地

西行墳

 富田林駅からのバスは一時間に一本あるかないかの頻度なので、行きはタクシーに乗った。西行が生涯を終えた弘川寺は、なんとも鄙びた山麓にある。花の季節を過ぎて梅雨に入っているので、空は晴れていても誰ひとり訪ねてくる人はいない。
弘川寺について境内の立て看には、次のような説明があった。


  「当寺は天智天皇の四年、役行者によって開創せられ、天武、
   嵯峨・後鳥羽三天皇の勅願字寺で、本尊は薬師如来であります。
   この上に西行堂が、更に丘上に、西行墳と似雲墳とがあります。
   本坊には西行に関する文献を保存し、庭園に天然記念物・海棠
   の老木があります。」


西行堂の横には、次の歌碑(川田順の筆)。
  年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山


西行墳のある丘上には、次の歌碑(尾山篤二郎の筆)。
  願はくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃


西行墳の説明には、「西行・円位上人は、晩年、空寂座主を慕ってここに到り文治六年二月十六日七十三歳でこの寺において入寂した。」 とある。近くには佐々木信綱の揮毫による次の歌碑があった。
  佛には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば


似雲墳の前の立て看によれば、似雲は江戸中期の広島出身の歌僧であり、西行を慕って足跡をたどり、終焉の地をここ弘川寺に古墳を発見した。そして古墳の周辺に千本桜を植えて花の庵を建てて住み、西行堂を建立し、生涯を西行追慕にささげた、という。
  尋ねえて袖に涙のかかるかな 弘川寺に残る古墳
                     似雲

 境内には、西行を追った研究者の歌碑や句碑がいくつもあるらしいが、いちいち確かめる時間はなかった。なおこの里では、クリニックのPR看板にも西行の歌が紹介されてあった。

  さびしさに堪へたる人の又もあれないほりならべん冬の山里


 弘川寺からの帰途は、金剛バスの終点「河内」からバスに乗って富田林駅に出た。


     石段は西行堂へ躑躅咲く
     西行の墳墓はまろき夏木立
     西行墳石灯篭は木下闇
     弘川寺タイサンボクの花かをる


  西行の足腰に及ばざりしかば足跡を追ふ電車、タクシー
  人あまた弘川寺を訪ふ時は花の季節か紅葉の季節
  たたなはる足引きの山越えて来し西行想ふ終焉の地に
  詠む歌に悟りの境地あらはれて若き明恵をおどろかしたり

  梅雨に入る桜青葉の山蔭のまろき墳墓に西行を訪ふ
  足引きの山里ふかく晩年の二年を住みし西行の庵  
  桜咲く山懐に西行の円墳あればひとめぐりしぬ
  西行の世に知られたる歌の碑が六基立ちたり寺の境内
  縁側に老人ひとり座りゐて話しかけたり西行のこと
  ひたすらに花の下なる死を願ひここに住まひし西行あはれ
  西行の終焉の地を訪れて泰山木の花に出会へり
  梅雨に入り青葉小暗き境内に泰山木の白き花咲く
  西行と別れてバスを待ちをりし金剛バスの終点「河内」
  「つかまる」と車内のテロップ伝へたりサリン事件の
  最後の手配犯


  六歳の男児脳死ちちははは臓器移植をうべなひにけり
  脳死せしをさなの臓器心腎肝三人に移植して生動す