天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(8)―

短歌研究1月号より

 先日の短歌篇(3)で、鑑賞の仕方について、斎藤茂吉塚本邦雄の大きな違いを紹介した。
塚本の考え方につき、少し余談を付け加えておきたい。彼は、「短歌はよみ人知らずが当然である。作者を前提として作品を鑑賞するのは、ごく特殊な場合であって、むしろ邪道と言いたい場合の方が多い」と、繰返し主張した。短歌は、一首で独立した文藝作品であるところに、存在意義がある、という明快な主張であった。
 ところで、塚本の御子息の塚本青史氏が、現在、「短歌研究」に連載している「塚本邦雄
徒然懐旧譚―斜交から見える父」というエッセイが、大変面白く、その都度楽しみにしている。そこでは、塚本の歌が出来た背景・裏話が語られる。1月号では、次の歌がとりあげられている。

  火の性(さが)は愛の形見を灰となし水にうかべる月はやはつか
                  塚本邦雄『斷金帖』

青史氏は、父上の手助けをして、石油缶で作った簡易焼却炉で、不要になった雑誌や歌集
などを残酷なくらいあっさりと破り焼却した。その詳細な情景から、この歌が出来た、と解説する。それはそれで面白いが、この歌は、そのような裏話を知らなくても、またよみ人知らずとしても、十分鑑賞に耐えうる。前記の塚本の主張を満たした歌と思う。上句は、成就しなかった恋の思い出の手紙か、亡くなった人のそれこれを焼いた場面を想像するし、下句は焼却炉の近くに置いた火消用のバケツの水に、夕刻近く早くも上った月がかすかに映った情景が想える。
 泉下の父上は、息子の裏話開陳を、どう見ているだろうか。多分、余計なことをしおって、と苦虫を噛み潰しているような気がする。親の心子知らず、と言っては大袈裟だが、そのように思って、この連載を読むと益々、面白いのである。