鑑賞の文学 ―俳句篇(8)―
此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉「笈日記」
[山口誓子]今年の秋は何故にこのように年老いたのであろうか。空には雲がいて、そこを鳥が渡っている。その鳥の渡るのを見ると、ひとしお自分の老いがかえりみられるのである。「雲に鳥」とは煮つまった言葉である。万感を籠めた言葉である。西行の歌に「雲鳥や」と詠い起したのがあったが、この場合「雲に鳥」は「日にかかる雲やしばしのわたりどり」の凝縮である。「雲に鳥」は「鳥雲に入る」の略だろうか。私には、鳥は雲に入らず、雲が見えている。鳥が見えている。
[飯田龍太]俳句の感銘というものは、きわめて直観的なもの。一読胸にひびき、六腑にしみわたって間髪を入れないものであり、くどくど説明することによって成程と合点するような作品は、所詮二流品である。むしろ、そうした説明を無言で拒否する力を秘めた作品こそ秀作といえる。作者にも説明の仕様がないのが、名句の大事な条件のひとつ、といい代えてもいい。
[山本健吉]それにしても、「雲に鳥」とはよくも置いたものである。芭蕉が自讃するだけのことはある。雲の中に、はるかの一点として消えてゆく、鳥の孤影に、自分の姿の象徴を見ているのだ。「軽み」の手法の究極に、このような奥深い人生表現を見る。
[加藤楸邨]この句の眼目は、「雲に鳥」によって、「此の秋は何で年よる」という独語的なものが支えられているところにある。芸道上のはるかな憬れ、はてしない漂泊への誘い、迫り来る衰老の自覚、こうしたさまざまな思いを一気に吐き出したのが上十二であったが、それが、「雲に鳥」という、あくまで具象的で、しかも無限の虚しさの中に吸いこまれるような寂寥に満ちた詩句と浸透しあうことによって、一句としての全き世界は形づくられているのである。なお、「雲に鳥」は、『句選年考』によれば、陶淵明「帰去来辞」や蘇東坡「四家絶句」からきている。
誓子は、「雲に鳥」に拘って、西行の歌に及んだ鑑賞。龍太は、例によって解説を省略し、名句の勢いを説く。山本は、「軽み」の究極に人生表現を見た。楸邨の鑑賞は、最も行届いたもの。