天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

島崎藤村の大磯旧居

大磯・旧島崎藤村邸にて

 先日の短歌人・東京歌会に次の詠草を提出した。


  藤村の死亡時刻にとどまるか大磯旧居の柱時計は


ところが、鑑賞した人は大磯旧居を旧吉田茂邸と勘違いしてしまい、よく理解できないという結論になった。出席者の数人がそうした感想をもったようであった。大磯旧居は藤村が亡くなった場所を指すことは、文脈上初句から明確のはずだし、大磯のことを多少でも知っている人なら、明治以降、政治家、実業家、文化人たちが別荘や屋敷を構えた地であることは自明のこと。よって大磯旧居といっても多数あり、誰のものかは文脈から判断することになる。が、そうした考え方の人は、いないようであった。スマホで調べて、「町屋園」とか「静の草屋」としたら誤解がない、という意見が出た。「町屋園」は、建物を指すのではなく、地区の名称だったので適合しない。置き換えるなら「静の草屋」であろう。ただそうすると「静の草屋」とは何だ、どこにあるのだ、わからないといった鑑賞になりかねない。大磯旧居とすれば極めて分りやすいと思ったのだが、なんとも逆効果になってしまった。ただ歌の姿としては

  藤村の死亡時刻にとどまるか静(しづ)の草屋(くさや)の
  柱時計は

とした方が、趣がある。「静の草屋」という名称は、藤村晩年の夫人の名前「静子」と「草庵」とからきているのであろう。もちろん静かな庵という意味でもある。
 歌会の後日、大磯の藤村旧居を訪れて職員の方に、「静の草屋」の読みと柱時計の時刻について確認した。読みについては、上の通りであった。藤村は昭和18年8月22日午前0時35分に永眠。その時刻で柱時計が止っている。この確認に基づいて歌は、次のように改めたい。


  藤村の死亡時刻をとどめたり大磯旧居の柱時計は


「静の草屋」にしない理由は、藤村死後に相当の時間が経っていることによる。彼の死後、高田 保(「ブラリひょうたん」で知られる)が4年間、その後静子夫人が21年間住み、大磯町の管理に移って今日に至っている。
 ついでにこの日に作った歌二首を次に。


  大磯に明治の別荘のこりたりおほかた寂れ草木に隠る
  藤村がながめし頃のままといふ大磯旧居の庭の草木は