神奈川の力石15
村の神社には様々の規模がある。今も季節の節目には盛大な祭を催すところもあれば、地元の人さえ正式な名前を知らない忘れられたようなところもある。まら、それぞれの由来も様々。
数奇な由来を持ち、現在も盛大な祭がある神社の一つに、三浦市三崎の海南神社がある。清和天皇の治世、皇位継承争いに絡んで讒訴を蒙り左遷された藤原資盈が貞観6年、任地の筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着、当地の長に推戴された。その後資盈は房総の海賊を平定し、地元の福祉に努めたため民衆から崇敬され、貞観8年に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀った、という。
[壽福寺圓通寺]横浜市都筑区茅ヶ崎東
ぎんなんを踏みて近づく力石
大銀杏下の藪陰のぞき込み力石ふたつ三つと数ふ
[妙義神社]三浦市三崎町六合
畑の辺に古びて立てる木の鳥居小さき祠の鈴ふり鳴らす
古びたる鳥居の前に立ちたれば祠の前に力石照る
幾人の手に擦(こす)れけむ力石朝の日に照る白きぼた餅
[海南神社]三浦市三崎
竹馬を寝かせてありぬ力石
相寄れる力石四つ大銀杏
神木となせる銀杏の玉垣に沿ひてあまたの力石あり
[日枝神社]相模原市南区鵜野森
日枝神社の場所はいづこと出会ひたる宅配便の兄さんに訊く
大欅大楠の根のあらはなる日枝神社には力石三つ
三つ石に米粒、ボタ餅、蕎麦粒の名前と貫目あるを記せり
蕎麦粒は二十七貫、ボタ餅は二十八貫、米粒は十七貫と
記されてあり
[村富神社]相模原市中央区矢部二丁目
華麗なる村富神社の参道は保存樹林のケヤキとサクラ
江戸の世の新田開発進めむと祠を建てて祈りけるとぞ
新田の開発為りしあかつきに小さき祠は神社となりぬ
新田は宅地となりて江戸の世の苦労をしのぶ村富神社
そのかみは大松ありて白蛇の棲みしと伝ふ村富神社
老人の目を気にしつつ力石いづこと探す村富の杜
本殿の左手奥に囲はれて二つならべる力くらべ石
石二つスチールパイプに囲はれて「力だめしの石」の
立札(たてふだ)
所感:
そのかみに力自慢を競ひしと今に伝へて力石あり