天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

山河生動 (2/13)

甲府盆地

行過ぎた客観写生への反措定として龍太が用いた手法に、先ず擬人法がある。擬人法は、無生物をあたかも人間の振る舞いのように記述するので、生命感を読者に感じさせ、まさに生動せしめる効果がある。リアリティが出てくる。主観や観念を自然な形で読者に手渡すのに龍太が工夫した技法である。
  満月に目をみひらいて花こぶし    『百戸の谿』
満月の夜に白い辛夷の花がきっかりと咲いている様を目をみひらいてと形容することで、鮮やかな情景が現前した。
  春暁のはるけくねむる嶺のかず    『百戸の谿』
里にはすでに春がきているが、里を取り囲むはるかな嶺々は雪を被って、朝になっても
まだ冬の眠りから覚めない。
  雪の峯しづかに春ののぼりゆく     『童眸』
雲の峯といえば、夏の季語なので、季重なりの句になっているが、擬人化した春が空を
登って夏に近づいている情景なので、なんら矛盾しない。
  うぐひすに瀧音笑ひつつ暮るる     『童眸』
夕暮にうぐいすが鳴き瀧音が聞こえる。「笑ひつつ暮るる」という擬人法の主語がはっ
きりしない。笑う主体と暮れる主体は同じなのか?滝音が笑っているように聞こえ、日が暮れる、と理解するのが自然であろう。
  春の雲人に行方を聴くごとし     『麓の人』
空に漂う春の雲が主人公。地上に暮す人(作者)に、これからどちらに向かったらよい
でしょうか、と問い掛けている。そのような駘蕩たる気分。
  晩年の母に二月の山走る       『麓の人』
龍太の母・菊乃は、十月二十七日に亡くなった。この句の格助詞「に」は、方向を表し、
「に向かって」を意味する。二月の山が晩年の母を気遣って走ってくるのだ。母の健康が
思わしくないことの暗喩であろう。