原爆の記憶(2/9)
怒りふるふ身を投げかけておもふとも 子をかばひがたし
原子雲のもとには 五島美代子
原子雲あがりし空を指して建つ三角柱のここに黒きかげ
吉野昌夫
とばされしその日の記憶いつの日までとどめ得む瓦礫と
なりし天主堂 吉野昌夫
原爆の孤児のかなしき告白に嗚咽(をえつ)は波のごとくひろがる
木俣 修
カウントの多き死の灰のおほひたる記憶もさむく畠村(はたけむら)過ぐ
木俣 修
ただれたる皮膚をぶら下げ集まれるこは人間かここに集ふは
川口常孝
老いづけば原爆の惨おのれより言はむとせざりし姑のこころよ
扇畑利枝
吉野昌夫は東京大学農学部卒業。はじめ北原白秋創刊の歌誌『多磨』に入会し、木俣修に師事。学徒出陣から帰国後、木俣修の歌誌『形成』創刊に参加、木俣没後は責任編集者を務めた。
木俣修の二首目のカウントは、放射能を計測するガイガーカウンターの計数音を指す。
川口常孝は昭和十九年より満州・北支に転戦した後、翌年四月、洛陽攻略戦中に病を得て内地送還。九州から広島陸軍病院に転送されたが、可部分院に移ったため、八月六日の直撃の被爆を免れた。