俳句革新?
子規は本当に俳句革新をしたのであろうか? 子規の後継者たちが持ち上げすぎたのではないか? 確かに寛政から幕末の天保にかけては、せっかく中興した蕉風が衰微し、再び貞門風がぶり返したような時期であった。漢語、縁語、掛詞、故事を盛んに技法として用いた。和歌の技法に諧謔が加わったようなものである。芭蕉もこの道を通ってきた。例えば、中国やわが国の古典を踏まえた句を即座にあげることができる。
砧打て我にきかせよや坊が妻 白楽天「琵琶行」
鷹一つ見付てうれしいらご崎 『山家集』
おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 謡曲「鵜飼」
むざんやな甲の下のきりぎりす 謡曲「実盛」
松すぎをほめてや風のかほる音 『拾遺愚草』
この行きかたを子規は「月並み調」と揶揄し、批判した。代わって写生技法を称揚した。
蕪村は南画家であり、画賛句を入れた俳画を描いた。そこが子規の気に入ったのであろう。
ところが芭蕉にも多くの写生句がある。極め付きを一句あげると、
艸(くさ)の葉を落(おつ)るより飛(とぶ)蛍哉(かな)
ちなみに、子規にも古典(記紀歌謡)を踏まえた句がある。
この岡に根芹つむ妹名のらさね
月並み調は人ごとではなかろうに。
写生を強調するあまり近代俳句は、技法面で痩せてしまったことは否めないであろう。短歌でそこを突いたのが塚本邦雄だった。短歌はすべて本歌取りだとまで極論し、豊富な教養を背景に歌を詠んだ。難解なのは、読み手の教養が不足しているからである。
ゴミ籠に鴉口開く残暑かな
雨雲の急を告ぐるや秋の蝉
鯉隠すさざ波白き野分かな
樹の上に国旗高鳴る野分かな
玄関に木の葉ふき入る野分かな