天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

屏風歌

 姫路へ日帰り出張。新幹線の中で『紀貫之』を読み続ける。貫之が専門歌人に成長していく
過程がわかる。それにつけても当時の和歌がいかに中国の詩歌に影響されたか、驚くほどである。
漢詩には、自分の不遇(出世できない、力があるのに認めてもらえない、意見が入れられない、家族と別れて戦地におもむく など)を悲憤慷慨するための手段としてあった感が強い。この性格がそのまま和歌に引き継がれていくのである。和歌の場合、更に恋における不如意が強調される。古今和歌集の選者たちは、紀友則を除き、皆官位の低い人々であり、絶えずそれを訴えていた。歌が上手ということで宮廷に出入りしていたが、せいぜい専門歌人としか見られていなかったのである。当時はまた、屏風歌が多かった。屏風絵を見て和歌を書き込むあるいは貼り付けるのである。いわゆる画賛。中でも貫之にはその依頼が多く来たらしい。有名な歌では、
   逢坂の関の清水に影みえて今やひ牽くらん望月の駒
 紀貫之の作歌手法の特徴は、「眼前の景物から連想を展開し、見えない世界への幻想をうたう」「耽美と理知とを一つにした体」という分析がなされている。新古今和歌集時代の藤原俊成が理想とした貫之の歌は、
   結ぶ手のしづくににごる山の井の飽かでも人に別れぬるかな
また、俊成の息子の定家は、貫之の代表歌として
   人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける
をあげた。
 最近の駅弁は全く旨くない。缶入りの水割りウィスキー、青柳貝の干物、飯蛸の煮干、ミックスナッツ、穴子飯弁当などを買って食ったが、なんとも味気ない。


   カトリーナに氾濫したるミシシッピー住宅街に鰐入りきたる
   黄緑の稲穂まぶしき田の道を日傘さしたる自転車がくる
   青白き水たたへたる揖斐川の幅ひろければ畑作れり
   あからひく日に稲熟るる時の間をゲートボールにあそぶ農婦ら
   いにしへの都を出でて草枕逢坂山のトンネルをゆく
   工場の裏手の空き地日の蔭の金網を這ふあさがほの花
   常念岳(じょうねん)の空青ければ山小屋の屋根にならべて
   布団干すなり


        近江路は野分の跡の稲田かな
        秋の日に堂塔黒き東寺かな