天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

わかる?

 「短歌研究」十一月号に目を通したのだが、なんだか理解できない歌に出会った。例えば、小池光は新作の諧謔歌として、二首出しているが、その片方。
   あけび蔓編みたる籠に投げ入れし赤玉ひとつ口より吐きて


口に含んでいた赤玉を吐き出して、あけび蔓で編んだ籠に投げ入れた、ということで意味は明快。だが、どこが諧謔なのか?
もう一首は、「作品季評」で取り上げている中津昌子歌集『夏は終った』の中から
   まふたつに割れたるわれはずれ始め高さのちがふ涙を流す


 実景として理解しようとするとわけがわからなくなるが、キリコの形而上絵画を見て詠んだのだと思えば、難解ではない。つまり、頭の先から顔、胴体、尻と切り下げて真っ二つになった身体がずれて、涙が流れているそれぞれの目の位置が違ってくるのだ。比喩の絵であり歌であるとするなら、その象徴する感情は何かを読み取らないと、わかったことにならない。
 短歌の作り方として、定家の時代に屏風絵を見て画賛歌を詠んだように、現代でも絵画を見て歌を詠む方法はある。それにしても読者に解読でき伝わる感情がなければ失敗作である。


   諧謔を詠んだ歌とはいうけれどさっぱりわからんこの赤玉は
   見られてもさげすまれても気に留めず顔に化粧(けはひ)す
   電車の座席