天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

宿命(続)

 インターネットで注文しておいたボジョレヌーボがさきほどとどいた。そのうちの赤を開け、サーロインステーキ、ピザ、チーズ、フランスパンなどをさかなに飲みだした。美味い! と気分がのったところで昨日の続きを書こう。
これも『俳壇』十二月号に出ていたのだが、鳥居真里子の作品を読んで感じたこと。彼女の作句法として、「取り合わせの句の面白さは、ズレの感覚を、なんだろうと補う意識がイメージを広げてゆくところにある。言葉の意味性は頭から無視しているのだから、作者と読み手の阿吽の呼吸によって完結してゆく・・・・・」ということを言っている。最短詩形である俳句でこの方法を是とするなら、コンピュータで作り出す作品でも十分評価に耐えるものがありうる。彼女の作品を例に、具体的に説明しよう。
1. 肩こりに効きます螢しづくです
   ( A に効きます BのC です )
2. 淋しさは涼しさに似て藍の皿
   ( A は B に似て C )
3. ふるものに鈴や男や花すすき
   ( ふるものに AやBやC )
4. 本日のおすすめ私とをみなへし
   (本日のおすすめ A と B )

 このように、定型の俳句では、言葉の配置にいくつかの型ができてしまう。A,B,Cに特定の長さを満たす名詞を、条件を設定したデータベースの中から選んで候補を出すことは容易である。
コンピュータで作ったということを知らせないで、賞に応募したりすると受賞する可能性大である。
チェスにせよ将棋にせよコンピュータの方が力のある現実をみれば、鳥居真里子流の俳句でよければ易いものである。それでも別に差し支えないのだが、コンピュータ時代に再び桑原武夫の第二芸術論が通用し始める。短詩型の宿命であろう。