我儘な歌
穂村弘著『短歌という爆弾』の続き。彼が短歌を解釈する場合、小池光などと違って、技術面の分析がないので、納得できないところがある。ただ、ニューウェーブ以降の若手歌人の歌をどう把握したらよいか、の説明は腑に落ちた。彼らは我儘な短歌を作っているというのだ。つまり読者に理解できることを期待していない、共感を呼ぶような作り方をしていない、自分の信じる何かだけを拠り所に発表している。
曰く、「従来の短歌が根ざしていた共同体的な感性よりも、圧倒的に個人の体感や世界観に直結したものとなっている。」「読み手はその作品世界の全体を受け入れるか、あるいは全く手を伸ばさないか、という二者択一を迫られる。」「従来の短歌にはみられなかった新しい表現要素を共有する人々のことではなく、その共有性自体と全く相容れない〈わがまま〉さを持った歌人のことであろう。」 例をあげるとわかりやすい。
珈琲を立ち飲みしつつ今こころミイラ製造職人のよう
大滝和子
17進法で微笑し目をそらす もう少しはやく逢っていたなら
嬰児期のあなたが月に映るやうな夜をかさねてわれはパピルス
水原紫苑
黄金の梨と成らばやふたたびをわが客人(まらうど)にまみえむとして
以下のことは、穂村がいっているわけではないが、読者側のひとつの見識としてあってよい。
こういう歌をなんとか理解、解釈しようと努力して苦しむのはやめたがよい。まして歌集をもらって延々と読まされるのは、時間の無駄であり、お終いには腹が立ってくるであろう。また、わかったような評論家の解説にもよくよく注意したがよい。