天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

題詠と屏風歌

 短歌では、《万葉集》のころにもあったが《古今和歌集》以後特に多くなり、歌合や屏風歌が盛んになるにつれて題詠が歌の本道のように考えられた。近代短歌では衰退した。というのが、題詠に関する百科事典の解説である。また屏風歌については、屏風に描かれた絵を主題として詠作された和歌。四季十二ヶ月を主題とした〈月次屏風歌〉や名所歌枕を主題とした〈名所屏風歌〉などがある。絵と歌とを同時に賞美する趣向は、9世紀後半から10世紀にかけて隆盛を極めた。長寿を祝う算賀、裳着、入内、大嘗祭等の行事のための屏風調進に伴って詠作された場合が多いが、歌に基づいて絵が制作されることもあった、という説明がある。これで、屏風歌が典型的な題詠の実用への応用例ということがわかる。有名な屏風歌としては、新古今集にある藤原定家の次の歌。「最勝四天王院名所御障子和歌」の一首として詠まれた。
  大淀の浦に刈りほすみるめだにかすみにたえて帰るかりがね


平安貴族は、現地に行ったことがなくとも伝聞からあるいは伝統的な歌枕として、心に風景を描いて詠んだのである。塚本邦雄の言葉をそのまま引用すれば、
“實景の心象のとかまびすしい論議が他の歌にもあるが、王朝の自然とはいづれの歌においても、ひとしく心の襖虵の中の實景であり、その實景實物など生涯肉眼で見ることもなくあまたの歌はつくり上げられてゐたのだ。”