伝説的人物を詠む難しさ
「歌壇」4月号に、岩田 正の「おせんころがし」という題のテーマ詠が掲載されている。詠み方は、おせんの身になっているわけでなく、全くの第三者として感想になっている。おせんから他の入水女に思いが及び房総の町や見かけた家族の風景も詠んでいる。
安房の国のおせんころがしかなしかりおせん沈みし総の荒潮
総に否国におせんの悲話あまたあれよをみなは悲しかるもの
入水ほどをみなに悲しきものはなし糸満・壇ノ浦・走水・安房
フラミンゴの足並乱るるをかなしみし行川アイランドくらがり
となる
これらの歌には、「かなしい」という感情語がまともに入っている。だが、読者は読み流すだけであろう。三首目は単なる知識を喚起するのみ。歌会で指導者がよく指摘するのは、かなしい時にかなしいという言葉を使ってはダメ、失敗するということ。
また次のような歌は、よくわからない、何か変だと思うはず。
特急はおせんの断崖通過して総の思ひ出ふかく削らる
*結句があいまい。思い出が削られると無くなってしまう
ではないか。「刻まる」ではないのか。
吉野・高尾遊女の死あり名の知れぬ鄙のおせんは海に死にたり
*遊女の吉野や高尾の名は残っているが、鄙のおせんの名は
知られていない、といっているが、言い伝えてよく残って
いるから、作者の歌にもなった。論理矛盾だよ。
つぎのような歌だと読者を立ち止まらせる力がある。
つま待ちておせんが海を眺めたるとほき眼いまの少女にはなし
よに賢婦列女はありてつま待ちて海に死にたるおせん暗愚か
フラミンゴ老いてダンスも整はぬあはれは街の衰微ともなふ
つね半裸艫綱を引く総の女(め)の裔か少女のこゑは荒れたる
後の二首はおせんのことと直接関係ないので、このテーマ詠を評価しているわけでない。
ことほど左様に伝説的人物を詠むことは難しい。作者にも実感がないしましてや読者は、である。どこに着眼すると迫力がでるかが課題。