短歌の音楽性
「短歌現代」四月号の特集は、”鑑賞・音楽としての現代短歌”である。音楽性の解析がありきたりで物足りないが、短歌とは何か、その定義をあらためて考える契機にはなる。
五七五七七の五句三十一音の文語定型短詩というのが、和歌の時代からの定義であった。が、近代以降、この約束を破る歌が続々と作られ始めた。
五句は守るが、大幅な字余りの歌の例として、土屋文明作品が有名。文語であるところが短歌らしいたたずまいを見せている。
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす
無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ
五句ではなく四句にして短歌らしくした例として高瀬一誌の歌がある。三句目が抜け落ちていると見れば判りやすい。下句が七七で収まっていると短歌らしく読めるから不思議である。
何かせねばおさまらぬ手がこうして石をにぎりしめたり
まじめに歯をつかえば豆腐はしばらく音をきかせる
あるいは、三十一音だけ厳密に守るが句の構成は自由に変える例は、現代口語短歌に多い。次は、小林久美子の例。
時間は不意にあらあらしくなる退く波のながいためらいのあとに
荷をおろしたのか積みに行くのか船はひらたく陽をあびつつ進む
そしてもはや定型を完全に無視した短詩に変貌した例も出始めている。次は穂村 弘の例。
海の生き物って考えていることがわかんないのが多い、蛸ほか
定型を無視した短詩を短歌のジャンルに提出して歌壇で活躍する理由は、現代詩の分野では、相手にしてくれないからなのか?短歌革新ということを未だに進めているつもりだからであろうか?定型を崩すことによる革新の試みは出尽くしており、新鮮さはない。