天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

詩歌のための古典

 昨日届いた「短歌研究」七月号の特集は、― 作歌の上達に ―薦めたい「古典」。その中に、岡井隆が「蕪村句集」をあげている。一昨日、昨日と蕪村の句を読んでいただけに、わが意を得たりである。彼は次のホトトギス三句について、三種の表記とレトリックの作用を指摘している。

     ほと〃ぎす平安城を筋違に
     子規棺をつかむ雲間より
     春過てなつかぬ鳥や杜鵑


彼があげる効用は、日本語のレトリックが、古代から中世近世と通って現代までうけ継がれていることがわかってくる、ということ。
 ついでに考えたことだが、短歌といい俳句といい、文芸なので言葉が全てである。映画、ビデオCGなどが全盛の現代では、題材は文字で書かれた古典よりも名画(映画作品)や影像でみる歴史的事件が主流になる。そこからどんな言葉を拾い、読者と文化を共有するか。「地球は青かった」「私はカモメ」などと聞けば、宇宙を最初に経験した人類をイメージする、ようにである。古典的な名画の一場面やセリフが、読者と共有できていれば、それが短歌や俳句の本歌になりうるということである。
 ちょっと説明不足かな。