天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

十六夜日記の真実

 岩波文庫の玉井幸助校訂『十六夜日記』についている「十六夜日記解題」と「阿佛尼傳」を読んで、いにしえの真実を知ることの困難さを改めて感じる。何種類かの写本を元に事実を推理するしかないのだが。そのひとつに、阿佛尼は鎌倉で亡くなったのではなく、京都に帰っていったらしい。
従って北鎌倉の阿佛尼の墓もしくは供養塔は、単なる噂からきていることになる。ただ、この推理も説得力に欠ける。何故なら、幕府に訴えた荘園の所属に関する裁定は出ていなかったし、息子の爲相は鎌倉で生活していたのだ。弟の爲守や京の留守宅が気になっていたのであろうか。
 さらに十六夜日記という名称は、後世の人がつけたもので、阿佛尼がそれぞれ別の時期に書いた三部作(道中記、鎌倉滞在記、鶴ヶ丘八幡宮への勝訴祈願の長歌)を、その内容から合わせて写本の際に一本にしたという経緯があるらしい。
 ついでに土佐日記更級日記を読んだ時の感じとの違いを言うと、阿佛尼の旅は貧乏臭くない、悲壮でもない、ということである。旅費や鎌倉での滞在費用は相当な規模になったはずだが、側室の身分ながら、かなりの蓄えがあったのであろう。誰の子供とも分からない子を次々に産んだにしては、理知的であり勝気な女性であったらしい。その性格からきているとも思えるが、和歌は別として文章は抑制されている。

 それはともかく、十六夜日記に出てくる多くの和歌は、背景がわかるので歌の作り方を学べる。
ちなみに、先週の休みに歩いた箱根や足柄に関わる歌を、この日記から拾って次にあげておく。


  玉くしげ箱根の山をいそげどもなほあけがたきよこぐものそら
  ゆかしさよそなたの雲をそばだててよそになしつるあしがらの山
  東路のゆさかをこえて見わたせば鹽木ながるる早川のみづ