天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

巨福呂坂

巨福呂坂

 どうにも信じられない。中世の軍記物『太平記』の「鎌倉合戦の事」に書かれている切通しのことである。新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入る場面に、


「・・・東(とう)八箇国の武士ども、従ひ付く事雲霞の如し。・・・六十万七千騎とぞしるせる。ここにてこの勢を三手に分けて、・・・その勢すべて十万余騎、極楽寺切通しへぞ向はれける。一方には・・・
その勢都合十万余騎、巨福呂坂(こぶくろざか)へ差し向けらる。その一方には、・・・その勢五十万七千余騎、粧坂(けはひざか)よりぞ寄せられける。」


とある。三手に分けた数を合計すると、七十万七千騎になり変なのだが、軍勢の数がとてつもない。まして五十万七千余騎が、あの急な粧坂(けはひざか)を通ってゆくなどとても想像できない。また、現在の巨福呂坂はトンネルになっていて鎌倉時代のものとは違う。昔の巨福呂坂はどうなっていたのか?
 それで横殴りの風雨の中、鎌倉へ出かけた。鶴ヶ岡八幡宮の横を建長寺方面に歩き、雪下二丁目五番で左手の道に入る。だが、少し坂を上ると行き止まりになる。というか草木が生い茂る山道となり、危険につき入ることを禁じている。いにしえの巨福呂坂はここから円応寺を経て建長寺前に出る峠道であった。北鎌倉側からこの巨福呂坂を十万余騎が越えたとは!まあ、数については白髪三千丈のたぐいと受け取っておこう。
 巨福呂坂の山腹には「青梅聖天社」があり、男神と女神の双身歓喜天を祀っている。ちなみに足柄峠にも歓喜天を祀った聖天社がある。峠に何故歓喜天なのか?もともと歓喜天は、インドのバラモン教からきている。関係を調べてみると面白かろう。


     みつめあふ歓喜天とぞ曼珠沙華
     道祖神囲みて咲ける曼珠沙華
     死人花巨福呂坂のしるべとも


  もののふの万騎が越えし巨福呂の坂ふさがれて咲く曼珠沙華
  相抱き正立したる歓喜天やしろの中にみつめあふといふ
  旅人が無事に峠を越ゆるやう抱き合ふ双身歓喜天はや
  秋雨のはげしき中にわがたどる巨福呂坂は行き止まりたり
  いにしへの巨福呂坂のしるべなれ道祖神あり彼岸花咲く