いらだたしい批評
「かりん」十一月号に、小高 賢が「ふたたび社会詠について」という評論を書いている。その中に以下のような歌が引かれている。
ひげ白きまなこさびしきビンラディン。まだ生きてあれ。
歳くれむとす 岡野弘彦
されど日本はアメリカの基地日本にアメリカの基地がある
のではなく 馬場あき子
一度もまだ使いしことなき耳掻きのしろきほよほよ
海外派兵 佐佐木幸綱
小高 賢は、それぞれを好意的に評価した上で、社会詠としてはどこか物足りないという。小高は、すばらしい社会詠の例を示さないから始末が悪い。この評論を読んでいていらだたしくなった。以下は、日頃感じていることである。
批判、否定ばかりして自らは何の提案もしない批評ほどいらだたしいものはない。テレビ朝日の「報道ステーション」が典型例である。歌人にもこのタイプをよく見かける。時の政府を責めたて、アメリカとの安保条約を否定する。それに代わる提案をしないで、自分は客観的立場で公平な批評をしているつもりなのだろう。日本国の将来と安全を考えて悩む政府の立場に自分をおいて、百年の大計をどうすべきか、目前の改革をどうすべきか、考えてみるべきである。今に始まったことではない。斉藤茂吉の戦中詠を厳しく指弾した歌人達も多かった。現代において、北朝鮮の拉致問題について、有名歌人が社会詠で訴えた例を知らない。むしろ北朝鮮をあまり刺激しない方がよい、追い詰めない方がよい、という。平和を愛し戦争を否定することには、誰だって賛成する。では、安保条約も軍隊も持たずに日本国の将来の平和が保証できると主張したらよいのに、そうは言わない。反体制の態度が悪いとは思わないが、自分達ならこう解決してみせるという提案がないから、信用できないのだ。提案できずに悩んでいるなら、それこそが歌で訴えるべき心情であろう。