芥川龍之介と鎌倉
今、鎌倉文学館で、「芥川龍之介の鎌倉物語―青春のうた」と題した展示会が開催されている。芥川に関する資料は、いままで見た中では山梨県立文学館所蔵のものが一番豊富であったような気がする。ただ、河童の絵のことしか印象に残っていない。この山梨県立文学館所蔵の資料がいくつも今回の展示品に入っている。それはともかく、鎌倉在住時代の若き日の芥川龍之介に関する資料が中心である。
芥川は大正五年から六年まで由比ヶ浜に下宿、結婚して七年から八年までは大町に住んだ。東大を卒業した後、大正八年まで横須賀海軍機関学校で英語を教えたので、鎌倉から横須賀まで通勤していたのである。
大正六年七月十一日に池崎忠孝への葉書に書かれた短歌がある。次の二首である。
赤玉のみすまるの玉のまが玉のぶらりぶらりと日をくらすかも
婆羅門の小田食む鴉とびやらずその婆羅門の居眠る久しも
芥川の俳句にはよく知られた作品があるが、短歌は珍しい。なお鎌倉時代に作られた俳句の例として、
沢蟹の吐く泡消えて明け易き
夏山やいくつ重なる夕明り
青蛙おのれもペンキぬりたてか
バナナ剥く夏の月夜に皮すてぬ
などがあるらしい。それぞれに星野椿が鑑賞文を書いている。
鎌倉に住んでいては時代に遅れるということで、東京の田端に引っ越したのだが、芥川の晩年、文夫人に語ったところでは、鎌倉を離れたことは一生の失敗であったという。
泣き笑ひしぐるる辻の六地蔵
文学館ベランダ近く青蜜柑
裏山もしぐるる鎌倉文学館
傘立に傘のあふるる時雨かな
しぐるるや谷戸にひびかふ栗鼠の声
蘂黒ししぐれに揺るる時計草
傘五つ御霊神社の七五三
裏門に回るしぐれの極楽寺
花梨の実ひとつ残してしぐれけり
松の葉を玉なし落つる時雨かな
横須賀に英語教師の職を得し五歳の夢は海軍士官
死ぬときは棺に入れむラブレター十七歳の文ちやんに書く
お互ひの棺に入れて逝きにけり写し残れる夫の恋文
結ばれし二十五歳と十七歳鎌倉に住み『羅生門』を書く
戸や障子閉めきつて書く龍之介開くればものが逃げてゆく故
龍之介風の吹く日はもの書けず漱石夫人にもらひし机
バンホーテンココアの湯気のあたたかき文学館の
ベランダにゐる