天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌人・東京歌会&研究会

 今日は午後から「短歌人」の東京歌会。そして研究会では、わが初めての当番で、テーマと資料を提供した。
 歌会では小池光と藤原龍一郎のコメントが収穫であった。
小池は、十羽とか五十年という数字が良くない、と指摘する。実は昔、彼自身、塚本邦雄から注意されたとのこと。九羽、五十一年とかするとリアリティが出てくる、というのだ。実際とは違っても、そうすべきという。なるほど、説得力がある。
 次に藤原は、個人的にオノマトペや副詞句はできるだけ使わないようにしているという。歌が安易になるのだ。
 研究会のわがテーマは、「藤原龍一郎鑑賞のコード 『楽園』を読む」である。A4で2ページの資料を配った。藤原龍一郎の短歌の構文的特徴を分類した上で、『楽園』の難解歌ばかりを挙げて出席者の読みを問うてみた。鑑賞文が書けるか、という観点からである。
 藤原龍一郎の作品を読むのに知識は必ずしも必須ではない、という若い人達からの意見が出たが、それには賛成しがたい。「今日においても、短歌形式は、あらゆる文学形式に精通し、ブッキッシュな知識を持ち、すべての外国文学も読んだ上で、すべての美学の上に、そういうものを満々と湛えたダムから滴り出る三十一滴の水だと考えてもいいと思うのです。」という塚本邦雄の短歌を詠む態度を考慮すると、鑑賞する立場も全知全能を傾けて作品に立ち向かうべきであろうと、思うからである。だが、あまりにも難解歌ばかり集めすぎたせいか、多くの出席者には突然すぎて読みが期待するほど出てこなかった。さすがに小池光は、いくつかを読み解いてみせた。テーマに挙げた藤原龍一郎本人のコメントで参考になったのは、彼が塚本邦雄を意識して研究したこと、また繰り返し読んだ歌集として、春日井健の『未成年』、寺山修司の『血と麦』、福島泰樹の『バリケード・一九六六年二月』の三冊があったということである。この辺の事情はよく理解できる。
 まあ、われながら気負いすぎた研究会であった。もっと気楽にテーマを設定すればよかったか。反省!!