韻律に緊張を
一昨日の短歌人・横浜歌会の際に、平野久美子さんから少し古い雑誌の提供があった。その中から去年の「短歌現代」9月号をもらってきた。特集「現代短歌―その美をさぐる」から読み始めた。またまた小池光の面白い文章に出会った。「美は緊張にあり」という表題である。これはもちろん、瀬戸内晴美(出家して寂聴)の小説『美は乱調にあり』をもじったもの。それはともかく、短歌に美をもたらすには、緊張を一首の上に構築すればよい、と説く。以下、さわりの個所を引用する。
短歌で緊張を作り出す要素はさまざまあるが、核心にあるのは
韻律である。五、七、五、七、七をいかに揺らすか。いかに
はっと息を呑む間合いを作り出すか、美しい一首にはいつも
その緊張を無意識に誘導する固有の間合いがある。
例えば、斎藤茂吉の次ぎの歌。
すき透らむばかりに深きくれなゐの松葉牡丹のまへを過りぬ
「すき透らむ、ばかりに深き」と読ませる。読まざるを得ない。
それが短歌の韻律である。そのとき転げ落ちるように抜け出した
「すき透らむ」の初句がそれ自身自立して、すき透らむが物質化
されたように感じさせるところに、はっとさせるものがある。
これは、韻律に関するものだが、他の要素について緊張をもたらす方法を考えることが我々読者の宿題である。
小池光のことになると文章にせよ歌にせよ、いつも手放しで賞賛しているが、つまりは、彼の説く緊張が、自らの作品に構築されているからなのである。