天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

大摂心

 円覚寺の居士林では、学生座禅道場を開催していた。希望すれば一般人も参加できると書いてあった。今回は二泊三日の修業らしく、参加費は学生が三千円、一般が五千円。一度は経験してみたいと思っているが、なにせ正座が十分ももたないので、すでに参加の資格がない。


      うららかや大摂心の禅道場
      もくれんの咲くとききたる座禅かな
      窓近くもくれん咲けり禅道場
      椿散って鬱深まりぬ帰源院
      山門の屋根軽くする初音かな


  ポケットにケータイ入れてずり下がるズボンかきあげ
  腰を隠せり


  きりきりと弓引き絞る道場の入り口に挿す椿一輪
  虎らしさいづくにありや虎頭岩二頭の亀が見上げてゐたり
  一輪の白玉椿咲きのこる聖観音のまなざしの先
  老人と鳩がみてゐる鯉の群川の汚れを背に滲ませる


 日曜日の午後は、短歌人・横浜歌会。題詠「色」と自由詠、各一首で、わが詠草は、


  納税の額に青ざめ三度目の電卓たたく税務署の隅
  一日中くちゃくちゃガムを噛む上司四月なかなか遠くも
  あるかな


 前者については、ありのままを述べた散文ではないか、三度目の電卓というのは変だ、などの意見が出た。実は、まったくの作り物なのだが、リアリティが勝ったということ。
 後者は、前田夕暮のよく知られた名歌「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」の下句をそっくりとってきて、意味はまったく逆にしたパロディである。四月は転勤の季節、やっと嫌な上司と別れられるという期待感を詠った。歌の内容は理解されたが、当然の批判として、他人の歌の一部をもってくるのは駄目、ということになる。