天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

おりょう終焉の地

信楽寺にて

 坂本龍馬の功績を賞揚したのは、司馬遼太郎の小説『龍馬がゆく』であろう。そこで妻「おりょう」の活躍も生き生きと描かれている。この小説を読んだ際には、「おりょう」の晩年についてあまり関心がなかったが、たまたま「おりょう」の生涯をたどった本が出るという記事を見かけた。
 その記事で、おりょう終焉の地が神奈川県三浦郡豊島村であり、お墓が信楽寺(しんぎょうじ)にあることを知った。さっそく訪ねてみた。浄土宗・信楽寺は、京急大津駅から徒歩で5分ほどのところにあるというので適当に歩いたら、周辺には信誠寺、貞昌寺、諏訪神社などがあり、迷ってしまった。
 信楽寺の墓地にあるおりょうの墓の横には、横須賀風物百選「坂本龍子の墓」という説明板があり、それによると、明治十一年七月二日、三浦郡豊島村深田二百二十二番地の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治三十九年一月十五日の午後十一時に死亡したという。つまり二十八年という長きに渡って、三浦の地に暮したことになる。海軍工廠が寄贈したという背の高い立派な墓石には、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と彫られている。裏面を見ると大正三年八月十六日建立となっている。実妹の中沢光枝が隣人の協力を得て建てたらしい。おりょうは、亡くなってすぐにここに葬られていたので、この立派な墓はあらためて作られたことになる。実は、おりょうは、西村松兵衛と結婚した後、妹をここに呼び寄せて一緒に住んだが、この妹が一時、松兵衛と駆け落ちしたという。酒びたりの生活でアル中、龍馬の妻であったことを唯一の生き甲斐とし、夫を手こずらせたという話も伝わる。


      丈高きおりょうの墓や百合香る
      梅雨に食ぶ竜馬おりょうの夫婦蕎麦


      
  あかぬけておほどかに見ゆる容貌(かんばせ)の写真を
  おりょうと今に伝へて


  名前変へ別の男に嫁ぎけり龍馬死したる後のおりょう
  妹に亭主とられてまたひとり龍馬思ひて酒にひたれる
  丈高きおりょうの墓に活けられし梅雨に濡れたる一束の百合
  つれ添ひし二年足らずの時の間が龍馬の妻の名を刻みたり
  横須賀の名所のひとつ信楽寺阪本龍馬之妻之墓あり