天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

季語について

十月櫻

 「俳壇」十月号の特集「俳句のゆくえ」で、高野ムツオが「季語覚え書」と題して、季語に関する考え方をまとめている。よく納得できるので、次に要約しておく。

 *俳諧の座が、当座の感興の共有の必要性から
  季題を求め、季題が、その時節の景物を示す
  言葉を求め、その整理と細分化のため歳時記が
  生まれ、その裾野がしだいに広がり、今日の季語
  世界が形成された。
 *季語は、俳句誕生以前から、思想と感動の集積として生まれ
  発達してきた言葉であり、俳句誕生以来、五七五という最短
  詩形の想像空間を支え続ける言葉として、重視され増殖し
  続けてきた。だから、その言葉に蓄積されている「思想と感動
  の集積」が消え失せない限り、たとえ具体的な事物が消え失せて
  しまっても、季語は消滅しない。
 *季語が生き続けるためには、それを用い、その時代にふさわしい
  俳句を生むという表現の積み重ねがあって初めて可能になる。


 一言付け加えるなら、季語には、「亀鳴く」のように、古典の情緒を引き継いだものもある。実際には、亀は鳴かないので、現実の事象ではない。この季語は、夫木和歌抄にある藤原為家の次の題詠歌からきている。

  川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり


古い漢詩文の教養などを現代の俳人が生かせるかどうかがこうした季語の今後の命運を決める。
 もう一例あげれば、万緑は、中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」により、季語として定着したが、もとはといえば、王安石の詩「万緑叢中紅一点」が原典である。同様なチャレンジというか、あらたな試みが期待される。