天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

病膏肓に入る

東俣野の田園にて

 とまではいかないが、作詞家・阿久悠の本を三冊購入した上に、定価8400円のCD版「人間万葉集」を買った。ここには、1965年から2005年までの代表詞108曲分が入っている。CD5枚と解説書のセットであるが、解説書の見開きに次の阿久の詞が自筆で書かれている。

      夢は砕けて夢と知り
      愛は破れて愛と知り
      時は流れて時と知り
      友は別れて友と知り


謡曲として聞いていると、気にならないのだが、詞だけ取り出して読むと、短歌に比べて気恥ずかしい言い回し・言葉が大変多い。歌会では批判の対象になってしまう。つまり短歌では、相当感情の抑制された表現が求められる、ということ。短歌のこの傾向は、多分近代になってから出てきた。和歌、短歌に現れる感情語・主観語の歴史・推移をまとめてみるのも面白いテーマになる。あるいは、すでに研究成果があるか。


      逝く秋の高き梢に栗鼠の声
      首すぼめ白鷺たてる刈田かな