春一番
天気晴朗なれどえらく風の強い日であった。七里ガ浜に寄せる白波はまさに牙むくごとく高い。稲村ケ崎に立つボート遭難の碑に書かれてある歌詞もさこそと思われて胸に迫る。
遭難は1910(明治43)年1月23日に起きた。小学生1人を含む逗子開成中学の生徒が乗るボートが沈み、12名全員の命が失われた。ブロンズ像は、抱き合ったまま発見された兄弟の姿をモチーフにしている。鎌倉女学校教諭であった三角錫子が同年二月に作詞した「七里ガ浜哀歌」の一番の歌詞が朝比奈宗源の筆で書かれている。
真白き富士の嶺 緑の江の島
仰ぎみるも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心
鎌倉女学校の生徒が合唱する「七里ガ浜哀歌」に、日本国民は皆涙した。
気象庁が春一番を宣言した。例年より九日ばかり遅いという。
顔を打つ春の疾風(はやて)の砂粒かな
遭難の歌詞にさしぐむ春一番
つちふるや国道一号渋滞す
老犬を砂に遊ばせメールする波のこだまの稲村ケ崎
海底の土と化したる義貞の剣想へり松風の音
波にのりエンジン音のとどろけりはるかかなたに船動く見ゆ
うち寄する波を見てゐる老犬と女主人の稲村ケ崎
氷雨ふる七里ガ浜に漕ぎ出でて帰らざりけり遭難の像
弟をかかへ手を振る銅像に春の疾風の海が牙剥く
宗源の書になるボート遭難の歌詞もかなしき少年の像
ローベルト・コッホ博士も愛でしといふ松籟たかき稲村ケ崎
松籟にちぎれ飛びくる木々の葉に顔そむけつつ岬くだりぬ
砂浜を後ろ向きにぞ歩きけり春の疾風の稲村ケ崎