天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

『茂吉の短歌を読む』

『茂吉の短歌を読む』

 先日、岡井隆著「『赤光』の生誕」について感想を書いたが、実はこの本と併せて岡井の『茂吉の短歌を読む』を購入していた。前者は、後者より後に書かれている。そして後者では、『赤光』のみならず『つきかげ』、『あらたま』、『つゆじも』などの歌集にも解説が及んでいる。それでふと感じたのだが、岡井は、それぞれの歌集について、今後「『赤光』の生誕」のような詳しい解説書を書くことを、ライフワークのひとつにしているのではないか。まことに徹底した研究ぶりである。
 それでこの『茂吉の短歌を読む』の読後感だが、一首の短歌を読み解くのに、こうも周辺あるいは背後の情報を調べる必要があるのか? それはある意味で邪道ではないか? ということ。つまり、俳句や短歌といった短詩の存在意義は、一句一首だけで鑑賞に耐え屹立しうるところにある、と信じるからである。今までにも言及したが、芭蕉の名句のいくつもが、『奥の細道』という紀行文の中で詠まれた。しかし、それらはいずれも、紀行文と独立して、一句だけで世に評価されている。
 短歌で疑問を感じる例をあげておこう。正岡子規の有名な次の歌。
瓶にさす藤の花房短ければ畳の上にとどかざりけり

 子規の病床六尺の境涯を知っている読者は、感激して高い評価を与える。「あららぎ」系の歌人が特にそうである。一方で、理屈が匂うつまらない歌として評価しない、塚本邦雄のような歌人もごく少数だがいる。この歌は、落合直文が既に発表していた「文机に小瓶をのせて見たれども猶たけながし白ふぢの花」という歌を、子規の視線で作り直したものであった。
 たしかに読者は、一句一首の詠まれた背景を知ることに強い興味を抱くのだが、それはあくまで一句一首の評価とは切り離すべきと考える。先年亡くなった俳人飯田龍太も、最高の俳句は、作者名を離れて一人歩きするもの、と繰返し説いていた。