天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(3)―

塚本邦雄著

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
                      正岡子規

(注)「墨汁一滴」十首中の第一首目で、長い詞書がついている。


斎藤茂吉平明な作であるが此歌ほど甚深の味のある歌は稀有である。いま世でよくいふ鮮やかな敏い感覚の歌の実例はと云つたら最も手近なこの歌の様なのを云ひ度い。「みじかければたゝみの上にとゞかざりけり」といふのは、止みがたき作者の主観の声であることに人々は気がつかない。山岳の壮厳にも海洋の動律にも全く接することの不可能になつた此作者が、枕もとの瓶の花房に対つてひとり思を抒べたのが、此歌である。それゆゑ、そこに作者の主観が一種の深い調べとなつて読者の心に響いてくる。
塚本邦雄私は幼少の頃この歌を読みまして、どこが面白いのかと思いました。このナンセンスに近い歌でも、鑑賞方法によってはこういうふうにもなるという一例が斎藤茂吉の鑑賞です。長い長い詞書を読み、病床に長くあった子規の境遇、背後の世界などの付帯条件を充分咀嚼して鑑賞すれば、これは非常に良い歌だ、というのです。
 こういう方法で、詞書その他を加えて読んで一つ一つ同情して行きましたら、世の中につまらない歌など一首もなくなるのではないかと思います。
 この子規の歌が本当に美しければ詞書はいらない。詞書も名前も一切消してしまってしかも美しい歌こそ、文学作品であり、言語芸術の一つの花と言われる資格があると思います。(『詩歌星霜』短歌出門)


 多くの有名歌人が、茂吉のような鑑賞をしてきた。塚本邦雄の立場に立つ歌人は、少数派であった。現在でもそう見える。