天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(3)―

講談社文芸文庫

 近代において、俳人与謝蕪村の名を一躍世に高からしめたのは、正岡子規であったが、その方法は、一句一句の鑑賞によってではなく、蕪村句集全体を分析・分類して評価したものであった。分析の項目は、詳細は省くが、以下のような設定であった。
・積極的美 ・客観的美 ・人事的美 ・理想的美 ・複雑的
・精細的美 ・用語 ・漢語 ・古語 ・俗語 ・句法 ・句調
・文法 ・材料 ・縁語及譬喩 ・時代 ・履歴性行等
だが後に、萩原朔太郎飯田龍太は子規のこうした評価に疑問を呈した。
萩原朔太郎の批判]
子規は本来真の抒情詩人ではなかったのだ。彼はそのヒイキにした蕪村さえも、単なる写生主義の名人としか解さなかった。彼には蕪村の詩情している本質のリリックが解らなかった。いわんや一層純一な抒情詩人であるところの、芭蕉を理解できなかったのは当然である。
飯田龍太の批判]
子規は蕪村を讃美することにあまりに急であったがために、細部までわたった芭蕉と蕪村の比較検討は、かえって蕪村の評価を低からしめる原因をなしたのである。つまり子規は、芭蕉と蕪村とが持つ詩人としての本質的なポエジイの差違というものへの適格な判断を過った。蕪村が子規の蕪村観によってのみ考えられ、その蕪村観を否定することにだけ止って蕪村芸術への探求が疎かにされてしまった。レッテルだけを眺めて通り過ぎてしまわずに内部に入ってつぶさに検討してみれば、そこにある人間心理の微妙さにいやでも覚め切った頭で思索することを強いられるだろう。