天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(5)―

砂子屋書房刊

  雲を雲と呼びて止まりし友よりも自転車一台分先にゐる
                    澤村斉美『夏鴉』


[穂村 弘]今このとき、「友」と〈私〉の間にあるものは「自転車一台分」の距離に過ぎない。その近さが逆に、二人の存在や人生は決して交換することができない、という「生の交換不可能性」を感じさせる。一方、この時点での二人が例えば社会的には交換可能な存在であることも事実だろう。「友」も〈私〉も青春の無名者として同じような自転車から同じように雲を見上げている。でも、それは今だけのことなのだ。この後の時間が進むにつれて、それぞれの名の下にそれぞれの人生を進んでゆくことになる。そのとき「自転車一台分」の距離は膨大なものになっているだろう。未来の運命に対するこの予感こそが、「自転車一台分」に象徴される今だけの今の輝きを支えている。
 引用歌のどこにも若者の歌とは書かれていない。この歌は中年以降の〈私〉のものとしては成立し得ない構造をもっている。今だけの無名性の光、私は青春歌の本質をこの点にみたいと思う。(「短歌人」2010年4月号、特集・青春短歌の光と影)


 青春性は、上句から感じられるが、穂村は、下句の「自転車一台分」から人生を読んだ。ここまで深く読んでもらえれば、もしかしたら作者さえ気付かなかったところに届いて感激するほどであろう。
 穂村は最近、現代短歌の主流は、「一期一会感、ある日ある時感 を持った歌である」と主張しているが、この鑑賞で「青春歌の本質は、今だけの無名性の光にある」と踏み込んで、論を展開したのである。