天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(6)―

砂子屋書房刊

  ホチキス針千本入りのおもたさよ未だ見ぬ時のぎうと詰まりて
               川井怜子『メチレンブルーの羊』


[小池 光]ホチキス針は一連五十発くらいであろうか。千本入りといってもだからたいした大きさでない。でも、千本使い切るには千回綴じる場面に遭遇せねばならず、それを思えば実に重いのである。どれくらいの時間がかかるものであろうか。わたしは、その時、何歳になっているのであろうか。未来はいつも希望と絶望が交差している。「ぎう」がおもしろい。(『メチレンブルーの羊』のしおり)


この歌のポイントは、下句にある。読み下した後、読者はここで立ち止まる。小池の鑑賞では、そこを具体的にリアルに説明している。読者が考えるであろうことをうまく代弁してくれている。そして短歌を詠む極意を教えてくれている。つまり、ノーベル賞受賞とか人工衛星「あかつき」の失敗とかの社会的に大仰なテーマでなく、ホチキス針の数といったまことにささいな事象にも詩を見つけることができる、という示唆である。先日取り上げた穂村 弘の「自転車一台分」の話と共通している。
この歌集には、次のようなすぐに納得・共感する歌がいくつもある。
   この穴に落ちるな言へばうなづく姉、直ぐ落ちてみる弟四歳
   魚清はわが家の変遷見てきたり四匹、三匹、二匹の秋刀魚

一方、次のような歌を読者はどう鑑賞するだろうか。

   ゐてもゐなくてもゐてもゐなくてもゐてもゐな 波の響きを
   聞いてはいけない