鑑賞の文学 ―俳句編(19)―
長谷川櫂著『子規の宇宙』は、購入してからかなりの期間、棚ざらしになっていた。正岡子規について、周知のことが書かれているのだろうという思いが、読み始める意欲を削いでいたのだ。本棚に目をやるたびに、気になっていたので、ある日手にとって初めから読み始めると、これが大変面白い。一気に引き込まれてしまった。電車の中でも読んでいる。まだ読了していないが、読んだ範囲で取り上げると、以下のようなところに注目した。要点を引用する。
(1)言文一致の究極の姿 子規庵における「山会」。参会者
たちは、自作の短文を朗読し批評しあった。ここでは文章は
耳で聞いても目に見えるように書かれていなければならなか
った。言文一致を唱える作家の多くは、「言」をいきなり「文」
として定着させようとした。
「言」とは本来「声」であることを忘れていた。子規にとって
「言」とはまず「声」であった。その上で「文」のよしあしが
判断された。「山会」での優れた作品は、子規派の俳句誌
「ほととぎす」に掲載することになっていた。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
という有名な書き出しで始まる夏目漱石の小説は、「山会」
での朗読から始まった。「ほととぎす」に掲載されて、好評を
博し、一朝にして小説家・夏目漱石が誕生する。
(2)俳句分類という作業により俳人・子規が誕生した。その逆では
なかった。室町から江戸にかけての俳書を蒐集し、諸分類項目に
従って、十二万句を整理分類した。
病床に横たわったまま俳句分類に励む子規には、この時代の
博物学者たちと同じ血が流れていた。子規は大著『大和本草』
を著した貝原益軒の遠い末裔であり、二千種の草花を『本草図譜』
に写しとった岩崎灌園の最後の孫に当たる。
長谷川櫂の文章の魅力は、観点が独自であり具体的で分りやすいこと。取り上げるそれぞれの事実は、子規の日記などに書かれているのだが、それが適材適所なので、新鮮に感じる。ただし、本の成り立ちは、あちこちに書いた記事の寄せ集めなので、内容に重複がある。