天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(23)―

角川書店刊

     ほかの道を知らずこの道花茨     菅 裸馬


芭蕉の『幻住庵記』に、有名な次の一文がある。


  「つらつら年月の移こし拙き身の科をおもふに、ある時は仕官
   懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らんとせしも、
   たよりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯の
   はかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。」


これは芭蕉が、精進してきた俳諧の道を振り返って、結局、無能無才の自分には、この道しかなかったのだ、という感慨を述べたくだりである。また有名な句に「此道(このみち)や行人(ゆくひと)なしに秋の暮」がある。これは芭蕉が切り開いた新しい俳諧の道を行くのは、自分ひとりだ、という矜持と孤独感を暗示したものと解釈できる。
 菅裸馬(すがらば)の掲出の句も類似の感慨というか、「俳句の道しか知らなくて、その美しくも厳しい道に精進している」という志を述べたと説明できるのだが、実際の彼の生涯は大いに違っていた。ほかの道を知らないどころか、八面六臂の大活躍をした一生なのだった。
 俳人・菅裸馬、本名・菅礼之助は明治十六年に秋田県で生を受けた。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。俳句の道では、青木月斗の結社「同人」の主宰を継いだ。歌人源実朝の研究もした。実業面では、古河鉱業へ入社してビジネスマンとして活躍、退職後は政財界に入り、石炭庁長官、東京電力会長、経団連評議会議長などを歴任した。交友範囲も相撲や芝居までと大変広かった。
 実を言うと、私は俳人・菅裸馬を全く知らなかった。たまたま花火の句を今年9月3日のところで引用したところ、それをご覧になったお孫さんの長瀬達郎氏から著書『俳人菅裸馬』(角川書店平成23年7月刊、定価1500円(税別))を紹介して頂いた。その本の内容から多才な人であったことを知った次第である。