天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

歌集『九年坂』(2/2)

六花書林刊

 歌の内容をおもしろく、あるいは不思議に感じさせる技法として、以下の四つがある。
□上句と下句の取合せ: 上句と下句の内容に断絶があると、
 意外性やユーモアが生まれる。
  多摩川沿ひマンションの灯のはてしなし鴉は白き眠りを
  もてり


  酔ひつぶれ正体あらぬ昼さがり 猫よ「吾輩は人間である」
  しみじみとは七十年は流れない 赤いシャツ着て家を出でたり
  願はくは散る花のもとに眠りたし 携帯が鳴る「よるなにたべる」
  地平線ありて落ちゆく夕日あり 神をくださいと言ふひとがゐる
  君はもう「知りすぎたのね」いえそんな、ふくろふの頭はいま
  うしろむき


  卓上のポットの影のみじかけれ 上野のゴリラ達者でをるか
  男(を)としてのお役目をはる時は来む駅前食堂かもうどん食ふ
  もはやもはや短歌(うた)をつくるしかありませぬ 韃靼海峡まだ
  見えますか


  金色にまことかがやく海に来つ 俺のへそくりだれにもやらぬ


□現実の認識と空想: 日常の事象の認識を詠む場合と空想を交えて
 詠む場合とある。
  春の日の縁に寝ころびまどろめば夏目家の猫つぶやき過ぐも
  ベンチにてとなりに眠るひとの腕だらりと垂れてわが腕となる
  どこまでも道にそひゆく電柱は炎暑の丘を越えゆきにけり
  前席にすわりたる女いつしゆんをこの世終はりの顔したりけり
  真昼間の駅前広場あかるくて赤き自転車ふとたふれたり
  逝きたらばやりたきひとつ 老い集め空の空地でいけいけ野球
  ガラス戸の内がはかくす廃屋の朱きカーテン見つつ過ぎゆく
  満員のがまんがまんの山手線おれはいま神の右足ふんだ
  ものなべて影の濃くなるこの夕べブリキの兵隊すぎゆきにけり
  わが部屋の子豚のやうな掃除機は天空を飛ぶあかつきのころ

□比喩
  大鯉の吐息のごときは聞こえたりさんぐわつの橋わたりゆくとき
  ばうばうと草木のおほふ山腹におつぱい型の雲を見てゐる
  ふくふくと交差点わたる老女なり空の縫ひ目のほどけつつ春
  天井にはりついてゐる油虫 体重ほどの生き方はある
  まざまざと本物のやうにありたればまづさうな高橋由一の豆腐
  灰皿をふせたやうな山三つ見え相模の海辺ことなかりけり

□擬人法
  頭をもたげ虚空をにらむ起重機の何もおこらねばどこまでも空
  重げなる起重機六基ならびをり端なるひとつぐいと首あぐ
  廃屋のものしづかなるお茶の間に生活(くらし)つづける急須がひとつ
  カレーパン持ちて帰ればわが家のくらき柿の木むかへくれたり
  電柱が雲を背負ひて消えにけりなにも知らないポンポンダリア
  これの世のどこへもゆかぬと声のして長靴ひとつ道に落ちてる