天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

うたがたも言ひつつもあるか

講談社文庫

 今後掲載する天空(天や空)を詠んだ短歌を集めていたところ、万葉集で作者未詳の次の歌に出逢った(第十二巻:2896)。


  うたがたも言ひつつもあるか我れならば地(つち)には
  落ちず空に消(け)なまし     作者未詳『万葉集


正述心緒に属する歌で、三句以下は分るが、初句二句がなんとも分らない。従って一首全体の意味が理解できない。いくつかの参考文献にあたってみたら、解釈がさまざまに別れる難解な歌であることが分った。鎌倉時代初期の学問僧・仙覚、近世初期の下河辺長流などから契沖、荷田春満、加茂真淵、加藤千蔭、本居宣長、鹿持雅澄、折口信夫佐佐木信綱武田祐吉土屋文明井上通泰久松潜一中西進など万葉集の研究者が、それぞれに解釈を与えている。以下に私なりの理解を述べる。
先ず初句「うたがたも」の意味を調べると、「も」は、係助詞として、大辞林 第三版の解説には、
うたがた: 平安時代以後「うたかた」とも。多く「うたがたも」の形で。
  1. 恐らく。きっと。
  2. (下に打ち消しの語を伴って)
    ㋐ 少しの間も。  ㋑ かりそめにも。決して。  ㋒ 必ずしも。
とあり、1の用例として、この万葉集の歌がでている。
 初句二句は作者以外の人の言動を推察している表現である。とすると三句以下は、言ひつつの内容を指すことになる。その場合、「我れ」は、作者以外の人なのか作者なのか?
「地には落ちず空に消なまし」は明らかに「我れ」の願望である。つまり「私ならば地上には落ちないで空に消えてしまいたい」という意味になる。
初句二句に戻ると「おそらく(三句以下のことを)人は言い続けているだろうか」という構文になる。よって一首の意味は次のようになるはず。
 「おそらく人は言い続けているだろうか “私ならば地には落ちないで空に消えてしまいたい”と」
歌の背景を想像するに、作者は恋する人に言い寄ったがふられてしまったのだ。それが周囲の人に知れて恥をかいたのだ。そして「人は私ならこんな恥をかく前に、黙って去っていきたい、と言い続けるに違いない。」と詠んだのである。
 なお、中西進の『万葉集』では、「うたがたも」を「うつたへに」と同語で「未必」の意味としている。従って、初句二句は「きまったように言い続けているだろうか」となる。