天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

山河生動 (6/13)

笛吹川

  春の谷爪切り過ぎしごとくなり      『山の木』
春の谷を見て爪を切りすぎたような感じだという。春の谷からは、芽吹きの新緑がなだ
れ込む底に、川が流れている様子を想像する。一方、爪を切りすぎた時は、背筋が
ヒヤっとして危うく感じる。共通するものは、ヒヤっとする危うい感じであろうか。
  白絣着て飛魚の眼のごとし        『山の木』
何が飛魚の眼のごとしなのか。白絣を着た姿なのか。白絣を着て円らな大きな眼を生き
生きと輝かせている子供の姿を詠っていると鑑賞する。
  やや酔うて別の年ゆくごとくなり      『涼夜』
「別の年」の解釈がポイントになる。季語としての年ゆくであろうから、今越えようと
している年の瀬とは別の時間の中にあると感じたのであろう。すこし酔ったせいである。
  良夜かな赤子の寝息麩のごとく       『今昔』
眠る嬰児水あげてゐる薔薇のごとしと似た感性である。赤子の寝息から、柔らか
で空気を含んだふわふわの麩を連想したところに説得力がある。
  日短し漁夫の荒鵜のごとき眼は      『山の影』
「は」は終助詞であり、余情・詠嘆の意を表す。日照時間の短い冬日を精一杯働いてい
る漁夫の鋭い目つきを詠んだ。類似表現。
  年暮るる北方領土棘のごと        『山の影』
ロシアにとられたまま何年たっても返還されない北方領土。今年も年が暮れる。棘が刺
さったままのように心が痛む。棘が刺さったようなという比喩は目新しいものではない。
龍太には珍しい時事詠である。
  古都奈良を秋が生絹のごとく去る      『遅速』
生絹(すずし)は、生糸の織物で、練絹に対して軽く薄く紗に似る。古都奈良の澄明な秋が去って
冬に入るという観念的な情景を、直喩を使った擬人法でリアリティをもたせた。龍太の開
拓した特徴的な技法である。
  星月夜こころ漂ふ藻のごとし        『遅速』
星月夜に作者のこころが揺れているのだが、それはあたかも海に漂う藻のようであると
いう。こころの揺れを藻に喩える手法は、古典的で新しくはない。この句では切れが気に
なる。初五ではっきり切れることは明らかだが、中七座五をそのままにとらえる場合と、
こころ・漂ふ藻のごとし とする場合とある。どちらでも意味は同じだが。