天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

甲斐の谺(10/13)

山廬後山(webから)

季語の詠み方と響き合い
(1)季重なりについて
 甲斐の自然に浸って生活する蛇笏・龍太父子にとって、季語は一句に一つのみという俳句の制約は、極めて不自然な事態であった。人が細かく定義したさまざまの季語は、自然の生活に溢れかえっているからである。
郷土に住む父子の日常実感として、ダイナミックな季節の移り変りを詠み止めるには、「季重なり」はごく自然な要請であったと思われる。つまり「季重なり」を認めない、となると生動する自然を表現することは、困難になるのである。作品の視野を狭めることになるのである。二人には、実態にそぐわない文芸上の約束には縛られない柔軟さがあった。
とりわけ龍太俳句には季重なりが多いという特徴があげられる。これは、三橋敏雄が指摘していたことであるが、十五%にもなる(「飯田龍太読本」、「俳句研究」昭和四十三年六月号)。三橋の解釈を要約すると、龍太俳句の季重なりは、推移する季節の微妙な気息に触れて、解すべからず味わうべしの妙境を読者に与えてくれる。ここに飯田龍太の抱懐する自然観に関る新しい時間造型の試みの成果を見出す。時間造型とは、時間の経過を目に見えるように言いとめる趣であると三橋は定義している。
龍太自身は季語について、先人の貴重な遺産であるから、それなりの敬意を払って使用すべきもの、大切な上にも大切にして、遺産に一段と輝きを加えるべきである、と述べている(昭和四十年三月二十一日 毎日新聞)。
なお、龍太には無季の句(雑の句)が十九個ほどある。内『童眸』に十四個と多い。
季重なりの例句は、容易に見付けられるので、ここでは各々一例のみあげる。
  三伏(さんぷく)の月の穢(ゑ)に鳴く荒鵜かな   蛇笏『山廬集』
  三伏の闇はるかより露のこゑ          龍太『山の木』
一句の季節を決める季題はいずれも「三伏」で、夏の句になる。が、蛇笏の句では、他に
「荒鵜」(夏の季語)が入っており、龍太の句では、他に「露」(秋の季語)が入っている。